この記事は10X アドベントカレンダーの31日目の記事です。

今年は社会が見たことない速度で変わっていくなかで、大きな命題を突きつけられ続けた1年でした。私が思いを巡らせてきた「自律」について書きたいと思います。

自律とは

私は自分自身に、子供に、自身の会社のメンバーに、自身と関わる全ての人間に「自律」を期待しています。

私が考える「自律」とは、明確な自己の価値基準を持つということです。

それは自分と他者の価値基準を尊重できるということであり、

ときには価値基準を通じて補完しあい、ときに価値基準を巡って闘争をし、

ときには自己否定のきっかけとなるものです。

自身の価値基準があるからこそ、易く迎合せず、他者とは補完の関係で社会や共同体を積極的に構成する一員となれます。

自律があるからこそ「人間的」であり、自律がなければ「人間という動物」でしかありません。

AIやメタバース、ロボットが普及する世界では、「人間」であることより「人間的」である��とによる境界がより重要である、という宮台氏・野田氏の主張には共感を覚えます(参考1) 。

参考1: 経営リーダーのための社会システム論~構造的問題と僕らの未来~

平たく言うと、「私はこうする。あなたも好きにどうぞ。ただ誰かを傷つけないようにしよう」というのが自律した個人の態度だと思います。

自律を阻むもの

今日(こんにち)の社会の中で私達が触れる多くのものは「自律」とは真逆の世界へ私達を導きます。「明確な自己の価値基準」を育むことは非常に難しいです。

我々の生きる「社会」とはどういうものでしょうか。

殆どの民主国家では戦争が消え、国への帰属意識は希薄になり続けます。

社会は「私達が困った時に要求に応えてくれる」と信じられるものではありません。

私が見ている情報と、私以外の見ている情報が全く違います。

「いいね!」を求めますが、SNSに自分を助けてくれる人はいません。

誰かとの対話や献身を通じて、何かを成し遂げるという機会は乏しいです。

一人で暮らすのに困るものはほとんどありません。むしろEasyです。だけど孤独です。

こうした環境で、「かくあるべし」といった自己の価値基準を構築するのが難しいのは当然でしょう。価値基準は「自律した共同体」の中で磨かれるものだからです。

個人的な経験を言えば、自律した個人(師) へ憧れ、模倣することが価値基準が磨かれた機会だったと思います。

自律のはじまり

子育てをしていて私が覚える不安は、「自律」へむけたきっかけづくりの難しさです。

本日時点で、私の子どもたちは一つとして習い事をしていません。プログラミング、英語、体操など、数ヶ月かじっては続きませんでした。私たち夫婦も、続けるための強制力は行使しませんでした。機能(スキル)を実装することはできても、これらの機会が「価値基準」を磨くとは思えなかったのです。

「価値基準」を磨くような機会は探してもなかななか見つかりません。習い事のようにお金を払って、誰かにその労力を委ねて解決することができません。我が家に限って言えば、親が子との関係の中で作り出すしかないのだなと気づきました。

思い返すと、これに通ずる考えは10代の青年時代から抱えていました。私も習い事は1つとして続かず、中学3年の受験期には通っていた塾を勝手に辞めました。帰ってきた私をみて、母は驚き泣きましたが、私にとっては塾も同じでした。

同じ疑念は社会人でも続きます。私はキャリア論をやや冷めた目で眺めていますが、その背景は転職市場の大部分が「機能取引所」だからです。

キャリア論はスキルを身につける・活かすという話で溢れています。社会人スクールの流行は一つのサインでしょう。しかし価値基準の確立という観点では、これらにどれほどの意味があるのでしょうか。

「スキルが無駄、重要ではない」という主張ではありません。スキルは資本を稼ぐ手段として重要です。しかしそれはある価値基準のもとに蓄積・発揮されて初めて価値があります。価値基準のないスキルコレクションは空虚になりやしないでしょうか。

「自律せよ」これは現代の私達へ向けられた最大の挑戦だと思っています。

企業に求められる2つのリーダーシップ

話は変わりますが、企業というのは2つの側面があることを2017年初に書きました。

それは利益を求める資本主義のプレイヤーとしての側面、そのために集う共同体としての側面です。

この記事での主張は「優先されるべきはリターンである」というものでした。しかし、今はこの考えに修正が必要と思っています。今は共同体としての企業のあり方が当時より重要だと考えています。

企業が資本主義を生き抜く上で必要なのは利益です。利益創出へ向けてはシステムや知識構造を構築し、社会的利益へのシンクロを使ってフォロワーを動かす「経営的な」リーダーシップが極めて有効です。イーロン・マスクのTwitterターンアラウンドは「経営的な」リーダーシップについて多くが見て取れます。

一方で企業には共同体の側面もあり、そこで求められるリーダーシップは、経営的なリーダーシップと真逆です。

参加者に当事者であることを求め、システム的な利害の「外」で関係性をつくり、当事者たちが相互にファシリテートするのが「共同体的な」リーダーシップです。誰かに委ねることをしないことで、継続的に場を良くし続けるためのリーダーシップといえます。

私の経験では、NPOで働いている際に地域と関与する際に必要だったのは「共同体的な」リーダーシップでした。その時に読んだ山崎亮さんの考えに支えられています。

そして共同体には成立条件があります。これが参加者が全員自律していることです。共同体は参加者が自律することを求めますが、参加者は共同体によって自律を磨かれるという関係にあります。

私は、自己相対的に見れば「経営的な」リーダーシップが強く、「共同体的な」リーダーシップが弱い人間だと思います。企業経営の中で相対的に必要性が増しているのは私の弱みの方なのです。

自律的な企業であるために

企業は単なる利益マシーンではなく、ビジョンやミッションを元に、凹凸を補い合いながら同じ世界を目指す場所となっています。それはきっと10Xも同じです。

「私の弱みこそ今の企業に求められている」というのが実態でありながら、私がこの会社を経営できているのは、私も「凸を活かし凹を補ってもらう一人」として振る舞うことができているからです。

利益を目指すスタートアップであるという側面と同等に、実は「自律した共同体であり、自律した個人が育つ場所であろう」としているところが10Xの特筆すべき点だと感じています。

10Xのオフィスは質素で、キッチンもなく、軽薄な雰囲気はありません。フィードバックはストレートで、誰もがいつでも相談に乗ってくれて、その相手は人だけではなくドキュメントが果たすこともあります。「(会社のリターンのために)私はこうする。あなたも好きにどうぞ。」という態度が確かに存在します。

会社はこの態度を抑えるより、推進することを目的に機能を実装をしています。それは今日の社会において本当に貴重だと思っています。

経営的なリーダーシップと共同体的なリーダーシップのバランスに悩むことがある小さな私ですが、社会を見渡しても、なかなか、これほど推せる場はありません。

最後に

今年もありがとうございました。2022年は45人から始まり、100人を超えるメンバーを迎える、そんな1年で、多くの出会いがありました。引き続き我々は採用活動に努めているので、こんな共同体としての側面を理解してもらうことに意味があるだろうと考え、筆を執った次第です。10X 採用情報も常にアップデートされているので、一度目を通してみてください。

2023年もこの会社を通じて多くの方とお会いできることを楽しみにしています。