凶報

先日2023年9月15日の午前、母方の祖母が逝去した。

午前中は大阪の自室でオンラインミーティングをしているところだった。

母からのLINEに気づかず、妻からのSMSで知った。ミーティングではちょうど自分がスピーカーだったのだけど、頭が真っ白になった。

オンラインミーティングを終えて家族へ電話した。

父とはこの後の段取りがまだ決まっていないことや、弘前の葬式場がパンク状態でなかなか予定が決まらないことなどを事務的に話した。

父が母と変わると、母の声が生前の祖母の声とそっくりなためか、何かが吹っ切れて嗚咽をあげて泣き出してしまった。ちょうど体調不良で隣の部屋で休んでいた次男が驚いていた。

予定の決まらない通夜や葬儀より、祖母の顔を一目でも見たい、と思った。急遽大阪から実家の弘前へ飛び、お別れをすることにした。

91歳。死因は心筋梗塞だったが、最期は苦しまずに逝ったと聞きすこし安堵した。

前日も病院の中で歩き回って転んだり、便が出てスッキリして、午後には家族面会を予定していたが朝方に心停止により亡くなったと聞いた。

苦しまずに、穏やかな最期を迎えられたのであれば良かったと思う。

祖母は晩年、アルツハイマー型認知症に苦しんだ。

私はその頃には離れて住んでいたが、家族も苦しんだであろう。それでも薬や施設の力もあり、元気に過ごしていたらしい。

新型コロナもあり、私はこの3年は顔を合わせることができなかった。

悔やむべきはそのままお別れを迎えてしまったことだ。

しかし冷暗所で対面した祖母は、もちろん年齢相応に老けたものの、髪の毛も艷やかで、私の目には往年の彼女のままに映った。

亡骸からは魂が抜けたように思われ、祖母は天国に昇ったのだな、と妙に納得した。

私の心も、前日に嗚咽して泣きじゃくったときに祖母を見送る準備ができていたようで、遺体との対面は穏やかにお見送りができたと思う。

祖母は約30年近く前に、最愛の祖父を亡くしている。

それ以来、広い家に一人で住みながらも、何かと元気に過ごしていた。

認知症が発症するまで、自分で車を運転し、たくさんの着物を着付けて茶道や華道を嗜み、いろんなところに友人と旅行へでかけていた。

私が大学時代の頃には仙台に遊びに来てくれて、妻を紹介したりしたこともあった。

祖母を見送った夜、父と母と妻、そして連れて行った第3子と一緒に夕飯を囲んだ。

父と母曰く、孤独ながらも長生きをした祖母の生きる希望は私と妹の存在だった、と。

アルツハイマー型認知症を患い、新しく何かを覚えられなくなった祖母は、晩年でも「まあちゃん (私の子供の頃の呼び名)、よっちゃん(妹)は元気か?どうしてる?」と問いかけていた。

結婚したり、子供を見せ行った後もそのことを覚えていられない。だから、子どもたちは何度か「はじめまして」をした。

それでも私のことはずっと覚えていた。大学を卒業したかしないかくらい、のところで記憶は留まっていた。

思い出

小学校に入る直前だっただろうか。

祖母と祖父が私1人を連れてディズニーランドへ旅行をしたことがある。当時の記憶は曖昧なのだが、帰り際に「光る剣のおもちゃが欲しい」と”ダダ”をこねたことははっきりと覚えている。

お土産屋を1つ見ても見つからず、また次のお店へ。

結局真っ暗になった園内を歩き回った。一日中歩いて疲れているはずの祖父と祖母はイヤな顔ひとつせず付き合ってくれて、そしてお目当ての「光る剣」を見つけたときは心から一緒に喜んでくれた。

優しいおばあちゃんだった。

その後もこの日のことを母や叔父によく語っていたようで、探し回って疲れた、ということは一言も言わず、やっと一緒に見つけて本当に嬉しかった、と話していた。

私が小学校に入ったか入らないかの頃、何かに腹を立てていて家出をした。

なんでだったかは覚えていない。

家出といっても子供の足なので、実家の近くの公園をうろうろしていただけだが、祖母が車で慌てて私を探しにきて、そして私を見つけた。城東公園の遊歩道のあたりで補足されたと記憶している。

祖母は焦った顔で私の元へ走ってきて、抱きしめて、そして諭した。

祖母は礼儀や言葉遣いにも厳しい人だった。家から出ていくときには「いってまいります」。

帰ってきたときには「ただいま帰りました」と言うように教えられ、忘れると叱責された。

小学校の教師らしく、しつけられた。

なお我が家の家系は祖母も両親も教師、という影響もあってか、妹も教師の職についた。

私だけが、なぜか違う世界へ進んだが、そのことを祖母はよくわからないなりに応援してくれていた。

祖母と私の間に残るもの

多趣味だった祖母の家には、たくさんの本や着物や彼女が作った人形などの”モノ”がある。

家だってモノのひとつだ。弘前を発つ日に久しぶりに家を訪れて整理を手伝った。

しかし、これらの物がどうなるか、正直なところ自分には興味がない。

自分はどこまでもリアリストであり、そこに祖母の存在を感じられないからだと思う。

リアリストだからこそ、故人との間に残るものはなんだろうと考える。

それは私と祖母の間にある記憶や思い出しかないよな、と思い至る。

モノはたしかに祖母が亡くなった後も残り続けることはできるが、それを大事にしようとは思えない。

それよりも祖母と私だけの間にあった確かな関係性や、その思い出をずっと大事にしたいと思える。

これは私と祖母が確かにそこにいた唯一の証拠だから。

いまでも「まぁちゃん」と呼ぶ声は、鮮やかに思い出せる。

1999年、家族で祖母を囲んで。